3月末に高浜地区の港山町にある「港山城」の山頂広場と登山道の整備が完了しました。
全国的にも有名な『三津の渡し』は、そもそも昔、港山城の兵の食料の調達のために対岸に舟を渡したのが始まりだと云われています。
今回、三津浜地域及び周辺地域の活性化を推進している団体が主となって、松山市の助成金(松山市美しい街並みと賑わい創出事業補助金)を活用し、総事業費545万円で整備が完了しました。
私も登ってみました。三津浜地区から「三津の渡し」を使って、高浜地区の港山町に着いて、そして徒歩で約10分~15分程度で、港山城跡の山頂広場に行くことができます。
山頂からの眺めは、港山から梅津寺、黒岩、ターナー島、更に興居島、そして中島が見える素晴らしい景色でありました。一度登って診る価値は十分あると思いました。
素晴らしい景色を堪能できますが、三津浜地区の古い町並みが立木でほとんど見えないのが残念ですね。なんとかならないものかと思いました。
参考ですが、「港山城」については、Wikiperiaに、下記のように記されていました。
「港山城(湊山城)は、1467年(応仁元年)に河野予州家の武将河野通春が築城して居城としたとする説、 1334年から1338年の頃、河野通盛が風早郡河野郷(現在の松山市北条付近)から湯築城に移ったが際に海の守りとして築城したとの説、そして河野通信が1186年(文治2年)に築いたなどの説がある。
河野氏本宗家と予州家との内戦においては予州家の河野通春の居城となり、重見飛騨守が1465年にこの城で討死し予州家の勢力が弱まる中、河野通春が病没(1482年)。
本宗家に攻められあえなく落城する。 本宗家の手に渡った港山城には河野氏の水軍衆が置かれ(湊山衆)忽那氏が統率し、伊予にたびたび侵入した大友氏や毛利氏との争いにおいては防衛の要として重要な役割を果たす。
1585年(天正13年)6月の豊臣秀吉の四国征伐に伴って、伊予に攻め寄せた小早川隆景の伊予平定軍の攻撃で落城し廃城となった。 落城と同じ年、長宗我部元親が伊予を制圧してほぼ四国統一を果たしていたとされており、四国征伐の際には港山城も長宗我部氏の支配下にあった可能性がある。
河野氏の本宗家が居城とした湯築城から距離があり、水軍衆と本宗家の内戦の原因になったという。
宮前川が注ぎ込む三津の内湾が城の直下にあって天然の港となっていて地の利は覆しがたく、廃城ののち江戸時代になってからも松山藩の船奉行と軍用船が置かれるなど水軍の根拠地でありつづけた。
港山城の城兵が毎朝、三津の渡しを渡って須崎の浜(現在の三津浜)で米穀や魚を買い求め、それが現在まで続く三津の朝市の始まりになったと言われている。」